おはようございます。
のムのム
でございます。
今回はまさかの
サッカーの話題です!
こちらに書いてある通り
女性はサッカーの話題はあまり好きではないようですが
今回はサッカー選手の感動のエピソードを紹介します。
実は随時サッカー、スポーツ感動記事沢山書いてます。
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試合前日に抜け出した理由が素晴らしすぎて感動して泣ける。
カシージャス
元スペイン代表ゴールキーパー
スペイン代表で歴代最多出場のレジェンド
未だに現役。
2007年に試合の為に前日に宿泊していたホテルから
監督の許可を得て向かった先は
3年間脳腫瘍と戦っていた
16才の少女のところであった。
少女はスペインの名門のチーム
レアルマドリードのファンで
1番好きな選手はその当時レアルマドリードの所属していたカシージャスであった。
カシージャスは彼女と会話をし
少女はセルヒオ・ラモス(現レアルマドリードキャプテン)に会いたいと話し
カシージャスはセルヒオ・ラモスを少女に会わせ
3人は楽しい会話をした。
少女は3年の辛い思いを吹き飛ばすような幸せを得ただろう。
しかし少女の幸せは長く続かなかった。
その後、少女は永眠してしまったが
カシージャスは別れの際には
カシージャスのユニフォームと
レアルマドリードのポスターを添えられた
少女はどんな思いで天国に行っただろうか。
日本人の事を思い、来日の度に行動する姿がカッコよくて感動。
ファーディナンド
元イングランド代表ディフェンダー
引退をして何故か今はボクサーを目指している
2001年に来日した際に
池田小学校児童殺傷事件を耳にしたファーディナンドは
京都観光を中止して
自身の母とチームメートとその小学校に向かい
校門の前に花束を献花しました。
2002年と2008年にもクラブW杯の際にも
再度、小学校に訪れて献花しています。
「悲しく痛ましい事件を思い起こし、追悼の意をささげ、献花したい。この花を飾ってください」
と本人のメッセージを添えられていた。
約7年も事件に対して想ってくれた
ファーディナンドありがとう。
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「僕は彼と話したい」
その言葉の意味が感動して泣ける
トマソン
元デンマーク代表フォワード
デンマーク代表出場歴は歴代2位
日本がW杯を開催していた時に
トマソンも代表として日本にいた。
デンマーク代表は練習を終えてから
地元の少年サッカーチームとミニサッカーを行ったり
握手会やサイン会は度々行った。
そんな握手会やサイン会に一人の少年が現れた。
やっと長蛇の列から念願の選手に会えたのに
少年はモジモジしていた。
トマソンは通訳を通じ、後ろの母親に話しかけた。
「どうしたの?」
少年は覚悟を決めたように
トマソンに一枚の紙切れを渡した。
紙切れには英語でこう書いてあった
「僕は小さい時に病気で口と耳が不自由です、聞くことも話すことも出来ません。
だけど、サッカーは小さい時から大好きです。
デンマークのトマソン選手が大好きです。
頑張ってください。」
通訳も記者も驚いていた・・・
言葉も出なかった。
しかし、トマソンは少年に微笑みを返して
「手話は出来ますか?」
といきなり手話をしました。
それに驚いた少年と母親ですが
実は手話は世界によってはやり方が違い
相手に伝わらないと教えられると
トマソンは
「僕は彼と話したい。書いて話したいんです。
手伝ってくれませんか?
長蛇の列の方たちにも僕と彼の会話に時間をくださいと伝えれませんか」
そう通訳に伝えます。
これからは紙に書いての会話です。
トマソン「僕にも君と同じ試練の姉がいる、その為に手話を覚えました。
君も辛いがその辛いは母親や家族も共有している。
君は一人ぼっちじゃない」
少年はうなずいていました。
トマソン「僕はこの大会でゴールを決める。
その姿を見て、頑張ってほしい」
少し省略させていただきました。
会話の後、少年と母親はその場を後にし
母親は涙が止まりませんでした。
その後はトマソンはW杯でゴールを決め大活躍。
その後はその少年にも出会い
紙で話をしています。
こちらも長くなるので省略。
こちらのお話だそうです。
少年はトマソンに勇気を貰い
頑張ってるに違いありません。
最後に残した物が全てを語る。それを知ったら涙が止まらない感動エピソード
ランパード
元イングランド代表ミッドフィルダー
代表も約15年選ばれるなどのレジェンド
2004年、ケント州に住むルーシーという少女が脳腫瘍で余命わずかと告げられる。
ルーシーの家族がランパードにその事を手紙で伝えると
ランパードはルーシーを当時所属していたイングランドの名門チェルシーに招待。
当時のキャプテンであったジョン・テリーとランチを共にした。
その後もランパードはルーシーと連絡を取り合い
カップ戦などの試合に招待。
チェルシーがリーグ戦の優勝を決めた試合ではランパードは2得点の大活躍。
ランパードはゴールを決めた際には
「このゴールをルーシーに捧げる!」
と雄叫びをあげたそうです。
次の試合では優勝セレモニーを開催。
ルーシーも招待され
選手たちに暖かい歓迎を受けた。
その3日後、ルーシーは短い人生に終わりを告げた。
ルーシーは最後に大好きなランパードにポエムを残して。
ランパードはルーシーの葬儀にも参列。
その参列と同じ日にリーグ戦の最優秀選手の受賞席に出席。
その時のランパードのスピーチより
「ルーシーのという少女のお話をさせてください。
優勝セレモニーの時にルーシーは来場していました。
脳腫瘍で辛い状態なのに頑張って試合を観に来てくれたのです。
彼女が見せてくれた品性と力強さはあらゆる物の見方を変えるものでした。
僕はこの賞を彼女と彼女の家族に捧げたいと思います!」
天国のいるルーシーはどう思ってたでしょうね。
個人的には死ぬ間際のポエムがね・・・
凄く辛いのにランパードの為に
苦しいのに頑張っているルーシーを思うと
涙が止まりません。
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日本を愛し、日本だからこそ愛してくれた監督。
その行動に感動するし涙する。
オシム
元日本代表監督
ユーゴスラビア生まれ(現ボスニアヘルツェゴビナ)
オシムが東京オリンピックの時に初来日しました。
その時にオシムはサイクリングをしようと思い
自転車を借りようとしました。
日本人は見ず知らずの外国人に無料で自転車を貸してくれ
サイクリングで遊んでいると
農家の方から梨を貰い
東京で初めてカラーTVを見て感動し
日本のホスピタルティ溢れる開催国の日本に涙したそうです。
その後、オシムはユーゴスラビア代表監督になります。
ふと練習中に日本人学生を見つけたオシムは
代表の選手と日本人学生を練習に参加させました。
オシムの日本に対する好意がそうさせたのです。
オシムはその後に
レアルマドリード、バイエルン、ヘルタベルリンとオファーを受けましたが
最後のフットボーラー人生を
思い出に溢れる日本で終えたいと
オシムは日本のJリーグの監督を引き受けます。
実はJリーグの監督をお願いしたのは
ユーゴスラビア代表の時に練習参加した大学生だったのです。
オシムは名門チームよりも日本を強くする事を自分の生き甲斐を置いていた。
オーストリアやクロアチア代表を蹴ってまで日本を選んでいてくれた。
オシムいわく
「若き日にお世話になった日本に恩返しがしたい」
「韓国代表監督?行かないよ。日本だから来たんだ、思い出の国なんだ」
オシムは今も日本を気にしています。
こちらの記事を読むと分かります。
体調が悪いにも関わらず
Jリーグも鹿島と川崎が優勝するかなど話し
代表もハリルホジッチ前監督を気にして
代表も気にしていました。
日本人以上に日本を愛してくれるオシム。
じーんと来ますね。
また最近でもオシムは気にしています。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190703-00839901-number-socc
冨安選手を絶賛されていました。
オシムは常に日本を気にしてくれているのです。
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比較的サッカーが分からない方でも
楽しめるものを集めました。
私は個人的には読んで
想像するだけで涙が流れます。
これで少しでも
サッカーが好きになれば幸いです。
最後まで見てくれて
ありがとうございましたm(__)m
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↓記事は下より
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