おはようございます。
のムのム
でございます。
最近やっと去年のテレビを見始めたと書きました。
その中のひとつの番組
やべっちFC
完全Jリーグ応援番組です。
この番組で泣いてしまった事を書きます。
サッカーショップ『フットボールマックス』
まず私はジュビロ磐田のファンです。
プロフィールにも書いていますが
今回はジュビロ磐田の話ではないです。
今回は
川崎フロンターレのお話です。
川崎フロンターレと言えば
思い当たる選手は
中村憲剛選手
ではないでしょうか?
サッカーは分からない方でも
名前や顔は知っているかもしれません。
まず一つ一つ紹介します。
川崎フロンターレとは
川崎フロンターレは、
日本の神奈川県川崎市をホームタウンとする、
日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
1955年に創部された「富士通サッカー部」が前身であり、
1972年に日本サッカーリーグへ昇格、
1992年からジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ参加。
1996年に「富士通川崎フットボールクラブ」(ふじつうかわさきフットボールクラブ)へ改称し、
11月21日に運営会社となる
「富士通川崎スポーツマネジメント株式会社」
(ふじつうかわさきスポーツマネジメント)
を設立。
1997年にJリーグ準会員となり、名称が公募によって川崎フロンターレと決定された。
そして先程の中村憲剛選手は
2003年からずっと川崎フロンターレ一筋でした。
2003年は川崎フロンターレはJ2でした。
J2とは簡単に言うと2部。
2部の時に中村憲剛選手はテスト生として入団しました。
2004年に川崎フロンターレはJ2で優勝し
2005年からJ1という1部に昇格。
2006年には昇格したばかりなのに
2位を獲得
2007年にはリーグとは違うカップ杯がありますが
準優勝
2008年も
2位
2009年はずっと首位だった川崎フロンターレ。
しかし終盤に最下位のチームに負けて
首位陥落しこの年も
2位でした。
そしてカップ杯も
準優勝でした。
実は川崎フロンターレは
カップ杯は3度優勝を直前で逃してます。
2000年、2007年、2009年
全て準優勝
ある方からは
「シルバーコレクター」と
言われるようになりました。
そこから川崎フロンターレは低迷します。
2010年~2015年まで
約6年
優勝に絡まなくなりました。
2016年
ある出来事から変わります。
大久保嘉人の得点力の覚醒。
風間八宏の約5年間の成果
こちらが全てではないですが
結果が見えてきます。
2016年
J1前期
2位
天皇杯
準優勝
中村憲剛選手はまた
2番ばかり
日本代表でも実力はあるのに
周りが凄すぎてレギュラーも取れず
常に2番手の位置にいました。
そして2017年
カップ杯でまたもや
準優勝
そしてリーグ戦は優勝争いをしていましたが
自力優勝は無くなっていました。
最終節に
鹿島アントラーズが引き分けか負けで
さらに川崎フロンターレが勝ちが絶対条件。
かなり優勝は無理な展開です。
川崎フロンターレは大勝。
鹿島アントラーズは引き分け。
川崎フロンターレ
優勝です!
川崎フロンターレは初のタイトル獲得。
その時に中村憲剛選手は
泣き崩れました。
私たちはただ川崎フロンターレが優勝したんだぁ
それだけしか思わないかもしれませんが
中村憲剛選手は
約15年かかりました。
長かったでしょう。
ずっとずっと2番。
チームも自分もずっと2番。
どんだけ頑張ってもずっと2番。
そしてずっと2番のまま
もう36歳になりました。
もう普通だったら引退の歳です。
それがやっと優勝。
もうその時の感情は表せないです。
その時の映像ですが
中村憲剛選手に
選手やスタッフが集まります。
中村憲剛選手がどれだけ貢献していたかが分かる瞬間です。
中村憲剛選手は立てません。
やっとやっと自分がやってきた事が
間違っていなかったのですから。
やっとフロンターレのファンに貢献した
やっと自分の結果が出せた。
その15年の涙でした。
最後まで見てくれて
ありがとうございましたm(__)m
昨日は
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ありがとう
ございましたm(__)m
こちらの記事はTwitterから読まれてる方が
凄かったです。
ありがたいですね。